昭和五十年十一月四日 朝の御理解
御理解第八十一節「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って向へうへおりたったら、それで安心じゃ。気を緩めるとすぐに後へもどるぞ。」
私共はある場合、一生がこういう心がけでなからねばなりません。一生がこれで良いということはないのですから。まあ、「一生が修行じゃ」と教祖様は仰る。いつもが九里半、どういうことがあっても、まだ九里半しか登っていない。あと半里が残っておるんだと、そういう心がけを頂かしてもらうから、「気を緩めるとすぐ後へ戻るぞ」と言うのですから、後へ戻らんで済むのです。
先日、ここに、皆さんに聞いて頂いた御理解を要約したり、又はヒントをメモしたものがこんなに沢山出来ております。これが十八冊出来とります。十八号まで出来た。それを今朝からちょっと開かしてもらいましたら、こういうようなことを書いとります。「人間は自分自身の幸福のために、神の指導と監督を受けることが必要です。そして神の栄光による幸福を受け、それを人に伝え、神の名と神の力を広めるのです」と。又次に、「自我滅却」、自我というは本能のことであります。又、「拝む喜び、聞く楽しみ、表わす有難さ」といったようなことを一連してここへ貼ってあるところを頂きまして、今日の八十一節の内容にして頂きたいと思うです。
問題は、私はここの「気を緩めるとすぐに後へ戻らんで済む信心」とは、今申しますように、人間は自分自身の幸福のためにいつも神様の指導、お指し図を受け通しに受けておかねばいけない。同時に監督を受けて行かねばならない、ということは日々御教えを頂いて、日々御教えに従うた行き方をいうのです。同時に、それでも人間ですから、どこに間違いがあるかわかりませんから、絶えず神様の監督を受けておかねばならないね。
今朝から私は、朝洗面さしてもろうたら、鏡を、必ず自分の顔を、前に鏡がありますから、映して、つくづく見せて頂くのです。自分の顔色、いわゆる顔色の良い時悪い時、ああこの顔なら人が助かるなという時と、この顔では人に見せられない顔だなという時があります。そこで改めます。というのは、今日は私は起きがけにもう数年も前ですから、熱心に信心しておりましたある方が、そして自分の思うようなことの反対になったのです。そしたら、私のところに、まあ言うなら因縁をつけに来たというのですかね、私を睨みつけて、私の非を言われてということを、今日思い出したのです。
そしたら何ですかね、今日はどうしてあんな気持ちが起きたか知らんけど、その時の私の実感というものはね、ああ、本当に信者というものは本当に頼りにならん。どんなに幹部でござい、総代でございと言うても、もう人にども頼るようなことがあっちゃならないなと。これはいつも肝に銘じて思うとります。だから信者には、どうぞお願いしますいうことは申しません。もうお願いすることは神様以外にないのですから、頼るということもしません。
ただ、「先生どうぞ」と言うてここへ来て下さるなら、こうしますけどね。こちらから頼って行きよるとね、向こうがこちらが頼ったように受けて下さりゃ良いけど、フッと引かれたら、私はひっくり返ってしまわにゃならん、ね。だからそういうことではならない。いわゆる人間は頼りにはならない。神様だけしかという気持ちがいつも私の言うならば、信心の言うならば真になっとる訳です。
本当にあの時分、それこそもう本当に親先生じゃなからんならんごと言いよった人が、一つ自分の思うようにならなかったことが続いたというて、もう本当に憎まれるとか恨まれるという時の見られる目というものはゾッとしますね。目をつき据えてぐっと睨んで言うとですから。その時のことを思うたらね、何かぞーっとするものを、何年振りです、そのことをフッと感じたんです。
そして、洗面さして頂いた顔が、ああ、これでは人が助からんな、こげな顔ではと、あの思うとったけれども、どういう風にして切り替えて良いかわからなかったです。そして襖あけて部屋に入ろうとしたとたんにです、この肘のここんところへ、ちょっと当たったらジーンとするところがあるでしょうが。そこを打ったとたんに、私の心が、例えば私を恨むとかね、そういう反発をするような場合であっても、そういう人達のことを、神様ならばどうだろうかということですよね。
いつもお互い、神心を目指しておるのですから、例えそれが普通で言うなら、敵のような人であっても、その人のことを祈らずにはおられないという心が、私は神心だと思うんです。もうこの肘をじーんと打ったとたんにね、私の心が何か一遍に清まった気がしたんです。神様はこのようにして監督をしておって下さるということです。私はまた改めて電気をつけて鏡を見せて貰うたら、その時には、ああ、この顔なら助かるという顔になってましたよ。本当にね、人間の心というものはすぐに表に現われるです。
これは今日皆さんに聞いて頂いておる人間の幸福というものは、神様の指導をいつも受け通しに受けとらねばならないということは、頂いておる御教えをいつも守り、心に頂き続けておらねばならないということです。それでも人間生身を持っておることでございますから、今朝の私の体験ではないですけどです、けれども自分自身も助からない、人も助かることの出来ないような、自分の人相になっておることにです、気付かせて頂いとるけれども、自分でどうにも、自分の心というものが、そう自由自在にならないことがあるけれども。もうそれこそ瞬間、私のこの言わば痛い思いをさせられたとたんに心が清まるような、まあだ私の心の中にこういう心があるんだなと反省さして頂いた次の瞬間には、もう穏やかな自分の顔を取り戻さして頂いとるということに気付かせて頂いて、今日の絶えず私共は神様の監督を受けとかねばならない。
それをお道では、「間違うたらすぐ神様がお気付けを下さる」という信心を頂いとかなければならない。ここが相まって行かんとです、神の栄光を受けられないです。それを「人に伝え、神の名、神の力を広める」そこんところに、言わば「拝む喜び、聞く楽しみ、表わす有難さ」ということになって来るです。
信心をさして頂いて、拝むということが、もう神様との直接の交流のこれは手段というですかね、ですから御祈念を心行くまでさしてもらわねばいけません。御祈念をさして頂いて、心行くまで御祈念をさして頂いた時に、信心をさして頂いておる喜びをしみじみ感じます。そして、「この方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる」と仰せられるのですから、み教えを拝聴するということが、また楽しみになるような信心。しかもそれをです、神の力と神の名を広めることのために、いわゆる示現活動に参画さして頂くといったような信心をさせて頂いておる、そういう足ろうた信心がです、私は気を緩めるとか、又、後へ戻るといったようなことではないおかげを頂かれると思います。
自我を滅却、自我というのは自己本能のことであります。というように利己主義、只、自分だけが助かれば良いといったような浅はかな信心では、自分の思うようになるともう油断が出来ます。心が緩みます。いわば後へ戻るのです。私共の生涯は、いつも九里半登っておるところだと先ず知らなければいけません。いつももう半道は残っておるんだと、そのいわば信心内容としてです、神の栄光を頂き続ける。
それには絶えず神の指導を受ける、神のお指し図を受ける。いわゆるみ教えに依るところの行き方を身につけて行く。そしてそれを行じておるように思っておっても、どこに間違いが起こるやらわかりません。そこで絶えず神様の目が届いておるという信心体験を日々頂いて行かなければなりません。それをお道ではお気付けと言う。
そういう頂き方の上に、さらにその神の栄光、神様のおかげを頂いている実感を人に伝える、神の働きを、それを広めて行くという一つの使命感とでも申しましょうかね、信心をさしてもろうて、おかげを頂いて、有難い勿体ないの生活に入らせてもろうて、それも神様の指図を受けながら、または神様の監督を受けながら、間違っておるところ、考え違いをしておるところは、神様の、痛い思いをさしてでも信心をわからせてもらう、わからせて下さる働きが必ずあるのですから、そこに改まった生き方を身に付けて行くという、そこに神の栄光がいやが上にも表われて来る。神のおかげをそこに実感する。おかげの中にちゃんと住むことが出来るのです。
それには小さい自分の利己本能、いわゆる利己主義。私が助かりさえすればよい、私のことだけといったような小さい信心でなく、いよいよ拝む喜び、聞く楽しみ、表わして行くところの有難さというものが、身につけて行かねばいけません。これは生涯かかって、これを繰り返して行かねばいけません。そういう行き方を身に付けさせて頂く時にです、「気を緩めるとすぐ後へ戻るぞ」ということにならんで済むおかげを受けられると思います。
今月は私は、気を緩めるとすぐ後へ戻るということを、まあ、これを私は小さく区切ればです、一つ一つが成就して、一つの段階にということですけど、これは一生かかってのこと、信心が。ですから、私共がどういうおかげを頂いとっても、まだ九里半しか登ってないんだ。これは生涯のものだというふうに聞いて頂いたんですね。
いつも教祖のお言葉をお借りすると、今中ということです。今がまあだ真中だという頂き方です。まだ九里半だ、もう十里登った。もう自分の願いが一つおかげを頂いたのでやれやれといったようなことではないということです。その後戻りをすることはない信心。そういう信心を、今日は、これは以前に頂いたんですけれども、ここに一つのヒントとしてです、神様の、もう一遍読んでみましょうかね。
「人間は自分自身の幸福のために、神の指導と監督を受けることが必要です」と。そして神の栄光に、いわゆる幸福を受ける。それを人に伝える。神の栄力と神の力を広めるのですと。「自我滅却」、自我というのは自己本能のことであります。「拝む喜び、聞く楽しみ、表わす有難さ」というようなものを、今日は内容に、そしてこういう内容を持って行くなら、信心を緩めたり、後へ戻ることのないということを聞いて頂きましたですね。どうぞ。